薩英戦争
昨夜のNHK大河ドラマ『篤姫』は「薩摩燃ゆ」と題して薩英戦争の様子が描かれたらしい。
生憎ドラマは見てないので、どんな内容になったかは分からない。史実通りきちんと描かれていたでしょうか?
さて、ここで高校日本史のおさらい。
「薩英戦争」文久三年六月七月二日(1863年8月15日)英国艦隊(旗艦ユーリアラス以下7隻と薩摩藩陸上砲台間で行われた砲撃戦。
・事件の発端 前年(文久二年=1862年)に起こった「生麦事件」の賠償を求め、英国公使J=ニールが艦隊とともに薩摩を来訪(文久三年六月二十七日)。英国側は犯人逮捕と遺族への賠償金25,000ポンドを要求するも薩摩側は拒否。以後、英国艦隊は錦江湾を遊弋し、薩英双方にらみ合いとなる。
・七月二日(8月15日)、英艦隊、薩摩藩の汽船三隻を拿捕。これに対し、薩摩藩陸上砲台攻撃開始(正午ごろ)。英艦隊からも応射が始まり、一大砲撃戦となる。
・薩摩側被害:艦砲射撃により鹿児島市街炎上。民家354戸、
藩屋敷、重要施設160余焼失。
藩汽船三隻、民間船五隻焼失。
陸上砲台(祇園洲砲台)にて戦死1名、負傷7名
鹿児島市内にて死者3名、負傷5名。
物的被害甚大。
・英国側被害:薩摩側の集中射撃を受け旗艦ユーリアラスの
艦長・副長戦死。
死傷者合計63名。
人的被害甚大につき、撤退。
・講和 文久三年十月五日(11月15日)英国大使館にて
講和成立。
薩摩藩は賠償金25,000ポンドに相当する金子
六万三千両を幕府から借り、英国側に支払った。
薩摩側は英艦隊来襲に備えて周到に防備を固め、事前に砲撃演習を行って待ち構えていました。英艦隊は薩摩砲台の火制範囲に艦を置いたため、集中砲火を浴びてしまったわけです。市街は焼かれたものの、敵陸戦隊の上陸を許さず、湾外に追い払って見せたのですから、天晴れと称せましょう。長州藩の「馬関戦争」(文久三年~翌元治元年)が長州の完敗(砲台占拠⇒破壊!)であった事と比較しても、薩摩の敢闘ぶりが際立ちます。
戦後交渉でも、結局英国側が求めた犯人逮捕は突っぱねてしまい、賠償金用に幕府から借りた金は、幕府ごと踏み倒す荒業を披露。その水際立った対応に、英国は却って薩摩に好意を持ち、幕府を見限って以後薩長側に肩入れするようになります。
こうして見ると、薩摩勝利とみてよさそうですね。ドラマの方では、どう描かれたのでしょう?
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