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「個人の尊重」、その先にあるもの

 先日9月4日の最高裁大法廷の決定の要旨に、以下の様な下りがあった。ちょっと引用してみる。

本件規定(※1)の合理性に関する種々の事柄の変遷はその一つだけでは相続分の区別を不合理とすべき理由にはならない。しかし、四七年(※2)から現在に至るまで、家族という共同体の中における個人の尊重がより明確に認識されてきたことは明らかだ。
 そして、認識の変化に伴い、父母が婚姻関係になかったという、子自らが選択や修正する余地のない事柄を理由に不利益を及ぼすことは許されず、子を個人として尊重し、その権利を保障すべきである、という考えが確立されてきている」 (引用終わり)

※1 本件規定=民法900条四号ただし書き前段
※2 四七年=1947年(昭22)この年民法改正があり、上記規定も設定された。

 「個人の尊重」、まことに結構なことである。私も基本的には賛成だ。しかし、何か引っかかるものがある。
 そもそも、「個人の尊重と」は、尊重されるに値する自立した個人の存在が前提ではないかと、私は考えている。今回の最高裁の決定は、遺産相続に係り嫡出でない子である女性の申し立てに応えたものである。自分の意思で嫡出でない子供として生まれたわけではないのに、自分に帰責性の無い事由で遺産の取り分に差が生じることを、理不尽と感じるのも無理からぬことである。インタビューでは「自分の価値は二分の一だ」と言われたようだという趣旨の発言をしておられた。この人が悔しい思いをしたのは事実だろう。一方で、嫡出子側はこの決定を「絶望的」とコメントしている。もとより、この人たちが今までどんな人生を送り、どんな思いを抱いて生きてきたのかを私は知らない。しかし、どうしても疑問を抱いてしまう。人間の価値とは遺産の多寡で決まるものなのだろうか?と。

 現行の民法では、739条1項で婚姻の効力は戸籍法の定めに従って届出を行う事で効力を生じるとして『法律婚主義』を採用し、732条で重婚を禁じ『一夫一婦制』を採用している。そして、相続遺留分も、「家」や「家族制度」が前提である。
 今回の決定では従来の婚外子の法定相続分を嫡出子の半分にするという規定は不当な差別に当たり、法の下の平等を定めた憲法14条1項に違反するとして、婚外子を個人として尊重しようと意図するものであった。決して、結婚関係以外の性行為を行って婚外子を設けた人間の生き方を、「個人(の生き方)として尊重」するわけではない。
 しかし、もし将来価値観多様化の流れから、従来の家族制度(法律婚、一夫一婦)にとらわれない多様な家族形態(事実婚も一夫多妻や多夫一妻も何でもあり)が許容され(むしろ、家族の否定と言うべきか?)、「個人」の多様なライフスタイルがとことん尊重されるとしたら、法令が相続に関してあれこれ定めること自体不要(と言うか不可能)になるのではないか?「相続分」も「遺留分」も「相続人の範囲」も法定せず、全部個人の意思(故人の遺志)にゆだねることになるのではなかろうか。そうなれば嫡出も非嫡出も意味をなさなくなるだろう。それどころか、相続自体必要でも必然でもなくなる。個人の財産は、自分の意志のみで処分されるべきであるし、自立した個人であれば親の遺産が当然手に入るなどと考えるべきではない。果たして、そのような世界は今より進歩した社会と言えるのだろうか?今より自由で個人が尊重されていると、本当に言えるのだろうか?少なくとも、私はそんな世界に住みたくない

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