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今日は何の日?「長篠の戦」(天正三年・1575年6月29日)

 天正三年五月二十一日(グレゴリウス暦では、1575年6月29日)、武田勝頼率いる武田軍と、織田・徳川連合軍が、設楽が原で激突した。
 武田勝頼は、徳川方に寝返った奥三河の奥平氏を攻めるために長篠城に出陣。長篠城の周辺に陣城を築いて完全に包囲していた。しかし、長篠城救援のため後詰に出陣したはずの織田・徳川連合軍は、手前の設楽が原で停止し、南北に流れる連吾川を堀に見立てて、野戦築城を開始した。
 織田・徳川連合軍の停止を知って、「臆した」と見たのか、勝頼も後詰決戦を期して武田軍主力を設楽が原へ転進させる。武田軍主力の誘出に成功した信長は、現地の地理に詳しい家康の重臣・酒井忠次に、織田軍精鋭である自身の馬回り(旗本衆)を付け、約4000からなる別働隊を編成し、夜半に間道伝いに潜行させた。別働隊は翌払暁に武田軍が長篠城包囲のために築いた陣城群の要である鳶ヶ巣山砦を強襲してこれを撃破。余勢をかって他の陣城も次々奪取して長篠城解囲に成功した。この時点で、織田・徳川連合軍の作戦目的(長篠城救援)はほぼ達成された。
 一方、後方に突如敵軍が出現し、味方の攻城部隊が壊滅したことを知った勝頼は、当然動揺したであろう。このままでは、前後から挟撃される危険がある。進むべきか退くべきか?しかし、既に合戦に向けて、部隊を横に展開した状態である。撤収を命じれば、部隊が動揺する。そこを敵に背後から襲われたら、壊乱状態に陥る危険がある。かくあっては、短期決戦で目の前の敵を撃破し、追撃不能なほどの打撃を与えてから撤収するよりない。おそらくそう決意したのだろう、勝頼は総攻撃を命じたが、敵陣の防備が固くなかなか突破できない。信長は鉄砲1000丁(太田牛一『信長公記』より)を集中して、これを五人の奉行に差配させ、武田軍の攻勢正面に集中投入し、武田軍の猛攻を粉砕した。約8時間の猛攻の末、武田軍はついに攻勢限界に達し撤収を開始。それまで陣に籠って防戦に努めていた織田・徳川連合軍は、直ちに追撃に移る。勝頼は何とか脱出に成功するも、父・信玄以来の重臣や、有力な譜代衆が討ち死にした。武田軍の、完敗であった。

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