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『湊川の戦い』から680年。

 西暦でいえば1336年7月4日、日本の暦では建武三年五月二十五日、かの有名な『湊川の戦い』が行われた。
 海陸から進攻する足利方に対し、宮方は主将新田義貞率いる主力(約1万)が海岸線に沿って布陣して水際防御を狙う一方、陸路の敵に備えて会下山楠木正成が布陣した。その数七百騎という。
 戦況は尊氏の海上機動に引きずられる形で新田勢が崩れてしまい、楠木勢は孤立(主力撤退を援護するため、わざと残ったとも)。楠木勢は孤軍奮闘するも衆寡敵せず、正成は弟正季と刺し違え、一族郎党玉砕した。宮方の惨敗である。

 さて、この戦い、宮方に勝機はなかったのか?

 素人考えで恐縮だが、もし兵権でフリーハンドを与えられていたならば、水際防御は棄てて新田軍主力は京都の入り口にあたる山崎(後年、明智光秀羽柴秀吉が戦った)の線まで後退させる。
 天王山に司令部を設置して、麾下部隊は隘路を塞ぐように布陣。
 別に弟脇屋義助に3000の兵を与え、対岸の男山八幡に布陣させる。
 一方で、淀川水系の川舟を徴発又は破壊して制水権を確保する。徴発した川舟は、後年淀城が築城されたあたりに集めておく。
 淀川の両岸を抑え、制水権を確保した上で足利方の上洛を断固阻止!時間を稼ぐ。
 楠木正成はいったん本拠地である河内へ向かわせる。河内・和泉の宮方を糾合して、摂津に進出し、遊撃戦を展開。足利方の背後を扼し、播磨との連絡線を絶つ。その上で摂津の武士たちを味方につけ、機を見て足利軍の背後を突き、新田勢と共にこれを挟撃する。
 楠木勢に呼応して新田勢も攻勢に転移。強弓の士を選抜して川舟に乗せ、川の流れに乗って足利軍の側面を急襲させ、側面から弓射を浴びせる。
 上記のように都合よく行けば、足利尊氏を討ち取れたかもしれない。しかし、現実は甘くない。神戸での防戦をやめて後退する段階で、「この戦、やばくね?」と思った武士たちがどんどん脱落して、軍勢がやせ細ってしまう可能性もある。なかなか思うようにはいかないものだ。

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