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今日は何の日?「二百三高地奪取」(明治三十七年十二月五日)

 今から百十二年前の今日、ロシア極東の旅順港要塞にて、乃木希典大将率いる日本軍第三軍が、要衝二百三高地を激戦の末に制圧した。旅順要塞を巡る一連の戦いの、ハイライトの一つである。
 旅順要塞(ポルト・アルツール)は強固な近代要塞で、ペトン(コンクリート)で固めた地下式又は半地下式の永久堡塁と、複数の塹壕線鉄条網、掩蓋付の重特火点(トーチカ)で構成されていた。このような近代的要塞を攻略することは、世界的にも初の試みであった。
 乃木三軍は、主攻正面を要塞東北部の堅塁群に定めた。理由は、輸送用鉄道の終末点に近く、攻城機材や重砲の輸送に至便なことである。
 まず前哨戦となる8月8日、9日の戦闘で大孤山小孤山の陣地を奪取し観測所を設置。海軍重砲隊(指揮官:永野修身中尉。後、大東亜戦争開戦時の海軍軍令部長)は直ちに旅順港内への砲撃を開始。居たたまれなくなったロシア旅順艦隊は出撃を決意、待ち構えていた聯合艦隊黄海海戦を行い、壊滅的打撃を受け再起不能になった。
 陸上における第一回総攻撃は、8月19日の攻城砲による砲撃で開始された。2日に及ぶ準備砲撃(砲弾36812発、695トン使用)の後、歩兵による強襲攻撃が敢行された。しかし、この強襲は失敗に終わる。突撃発起地点から敵第一線まで距離があり(4~500m)、そこを駆け抜ける間に健在な敵機銃座や砲座から十字砲火を浴びてしまったのだ。それでも、大頂子山及び盤龍山東西陣地を制圧するを得た。この時の第三軍参加兵力は50765人で、死傷者実に15680人!。ロシア側は兵力33700人で、死傷者1500人。死傷者の数からいえば惨敗であった。
 しかし、乃木は強襲策では損害が大きいばかりと見るや、直ちに強襲から正攻法に切り替え、味方の塹壕線を伸ばして敵陣に肉薄する。この切り替えの素早さは、乃木司令官と伊地知参謀長の優秀さを示している。(『坂の上の雲』に描かれた乃木将軍と伊地知参謀長は、完全なフィクション、でたらめだ)ドイツがえりの井上幾太郎工兵少佐が二日で作り上げた突撃教令(マニュアル)に従い、敵陣から40~100メートルまで塹壕線を伸ばして突撃陣地を作り、決戦兵器・二十八サンチ榴弾砲(海岸要塞砲を転用)の援護射撃下で敵永久要塞の強固なペトンを粉砕し、これを攻略しようとした。第二回総攻撃の前哨戦(9月19日~22日)では敵外郭陣地である竜眼北方水師営南方などは落せたが、二百三高地は残ってしまった。その後、10月26日から31日にかけて第二回総攻撃が実施されたが、これも失敗。敵堡塁外壕に飛び込んだところ、カポニエールという側防機関銃陣から掃討されてしまい、またも大損害を出してしまったのである。それでも、死傷者数は第一回総攻撃に比べ3830人と激減しており、逆にロシア側の死傷者は4532人と3倍し、彼我の損害は逆転した。正攻法の採用は、間違っていなかった。
 乃木司令官は、増援に北鎮・第七師団が上陸し、戦列に加わったことでいよいよ第三回総攻撃に打って出る。工兵隊による地下坑道の掘削で敵カポニエールを爆破する作戦である。11月26日に始まった攻撃は、敵カポニエールを破壊して突撃路を確保し、そこから外壕を駆け上がり一気に敵陣に突入する手筈である。今度こそ上手くいくと思われたが、ロシア側は外壕の内側にもう一線防御陣をひき、徹底抗戦したため損害多数となり、どうしてもこれを落とせない。白襷隊による決死の夜襲も失敗し万事休す。ここで、攻撃正面を二百三高地に移すことにする。二百三高地への攻撃は、すでに11月27日18:00より第一師団による突撃が開始されていた。以後、50時間に及ぶ熾烈な争奪戦になるも勝敗は決せず。30日朝に第七師団を投入するも苦戦、12月1日に第七師団撤退。そこでしばらく小休止し、その間に重砲の配置転換を行う。12月5日に攻撃を再開し、ついに完全制圧に成功した。ロシア軍はこの二百三高地を巡る攻防で、守備兵力を大幅に消耗した。すでに、予備兵力は尽きた。一方、二百三高地を得たことで日本側は旅順港を完全に俯瞰できる視界を得た。旅順艦隊が既にスクラップと化していることも確認できた。これで、聯合艦隊は内地へ戻り、来るべきバルチック艦隊との決戦に備えることができる。あと一歩である。
 最終決戦として、東鶏冠山東堡塁が攻撃対象となり、12月18日に工兵隊によって3トンもの爆薬が敵要塞胸墻下の坑道に仕掛けられ、一気に爆破された。突撃路が開かれそこへ我が兵が雪崩れ込む。ロシア側は内側の防御線に拠ってなお激しく抵抗したが予備兵力が無い。ついに夜間に撤退し、翌朝日本軍が完全に制圧した。次いで、28日に二龍山堡塁、31日に松樹山堡塁を攻撃してこれを陥落せしめた。東北部の敵の堅陣はついに破られた。明けて明治三十八年一月一日、本丸に当たる望台を占領。ここに敵将ステッセル将軍はついに降伏を決意。ようやく旅順攻防戦は幕を下ろすことになる。
 五か月に及ぶ攻防で、我が方の死傷者は5万9千に及ぶ。大損害だが、それでもクリミア戦争におけるセバストポリ要塞攻防戦(1854~55年)における死傷者(連合軍側128000人、ロシア側102000人)や、第1次大戦のヴェルダン要塞攻防戦(フランス軍死者行方不明162308人、ドイツ軍死者100000人。負傷者は双方とも2~30万人で正確な数字は不明)に比べればまだ小さい方。攻者三倍の法則に照らしてみても、ロシア側の二倍弱の兵力で堅陣を落とせたことは特筆に値する。赫赫たる戦果と言ってよい。

 それにしても、司馬遼太郎先生は罪なことをなさる。乃木将軍に恨みでもあるのかと思うほど、偏執的な態度である。
 

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